JJガールが好んで持ち歩いていたのが、ヴィトンやセリーヌ、フェンディの。バッグ、しかも、どのブランドなのかが一目でわかる模様のバッグだ。ヴィトンならば、LVのロゴが入ったモノグラムラインの、セリーヌであれば、Cの文字が入ったキャンバス地の、フェンディであればFの字の連続柄の。バッグがJJガールのお気に入りだった。足元に目をやると、これまた一目でわかるサソローラソやウンガロのウェッジシューズを履いていた。ただし、ブランド名がすぐにわかる靴がそう多くなかったため、高級ブランドの利用は圧倒的にバッグに集中していた。一九八一年にルイ・ヴィトンジャパンが設立されるまでは、ヴィトンの、、バッグの内外価格差往一丁四倍にも達していた。つまり、ヴィトンのバッグを手に入れるには二〇万円近くも必要だったことになるが、JJガールたちはいとも簡単にそれを成し遂げ、町にはニュートラファッショソを身にまとった女性が氾濫した。『アクロス』編集室が書いたように、「豊かな」日本、「豊かな」消費社会が実現したからこそ可能だった現象だ。七〇年代後半に、『JJ』はニュートラとは若干テイストが異なる新しい女子大生のファッションを提唱した。横浜元町発のハマトラだ。海外のブランドにすかるニュートラとは異なり、ハマトラは元町の老舗ブランドで全身をまとめるのがお約束だったが、ブームの後半にはクレージュのバッグが愛用された。ニュートラの後期とハマトラの全盛時、私はちょうど大学生だったが、本当にあの頃のキャソパスにはみるみるうちに海外ブランドのバッグを持つ女の子が増えていった。アルバイトに精を出して、ブランド品を買いあさっている学生もいた。世間的にはダサくて地味、という定評が固まっている女子大であったにも関わらずだ。そうした当時の『JJ』の影響力を私は身をもって経験している。JTJファッションとは正反対の、モード系ファッションを看板にしていた雑誌『an・an』ですら、ニュートラ人気にはあらがえなかったのか、七五年にはニュートラファッショソを特集していたほどだ。ファッションライターの川本恵子は、JJファッションをこうとらえている。鏡の前でいちいちコーディネートを考えなくても、まあまあサマになるという実に便利で万人向きのスタイル。しかも、もともとが神戸の山の手のお嬢さんのスタイルがお手本だから、これを着てれば、誰でも。いいとこの娘”風に見えるというオマケまでついている。ファッション植民地日本で、初めて生まれたオリジナルのスタイルといっていいだろう。『筑摩書房ファッション主義』一九八六年)高級ブランドに多くの人が群がる国は、今でもそうそうはない。当時も日本ぐらいのものだろう。しかもそれを若い世代がやすやすと身につけた。誇らしげに手に持った。好き嫌いは別として、確かにあれは、ほかの国では見られない日本オリジナルのスタイルだったのだ。